2018-01-22

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我が国では、1890年8月に、普通銀行を対象とする銀行条例が公布された時から、発券銀行(銀行券を発行する銀行)以外の私立銀行であっても、預金者の保護と信用秩序の維持という観点から、ある種の公共性を有するため、商法(会社法)とは別の法律によって規制される必要がある、という認識が存在した13。銀行条例では、一般の会社と異なり、認可制による開業規制や、資金運用制限(1取引先への貸付額を制限する大口融資規制)などが定められた。この点については、多くの西欧諸国において、1930年代まで、私立銀行を対象とする法律が存在せず、一般の商法に準拠して銀行が設立されたこととは事情を異にしている。

その後、資金運用制限については、銀行業界の反対運動を受けて、1895年には、普通銀行および零細な貯蓄預金を取り扱う貯蓄銀行に対する規制が撤廃された。また、政府は営業の自由の観点から、銀行の設立を抑制しない方針をとったため、、銀行数は累増し、ピークの1901年には、普通銀行1,890行、貯蓄銀行444行など、合計2,385行に上った。

1914年8月に起きた大阪の北浜銀行の破綻をきっかけとして、金融行政当局である大蔵省は、銀行への規制を強化する方針に転じた。1916年3月の銀行条例改正により、銀行に対する事業の停止、営業許可の取消の規定が新設された。同年4月には、大蔵省の銀行課が銀行局に昇格するなど、行政組織も強化された。

第一次世界大戦後の反動恐慌のなかで、1920年3月15日に株価が暴落し、同年4月には増田ビルブローカー銀行が破綻した。これを契機に預金取付けが拡大し、七十四銀行など休業銀行が続出して、金融恐慌が深刻化した。同年4月から7月までに、普通銀行と貯蓄銀行21行が休業に追い込まれた。その後、取付けは一旦鎮静化したが、1922年3月に高知商業銀行、同年10月に日本商工銀行、11月には日本積善銀行が破綻した。これらを契機に、預金取付けが広範囲にわたって拡大し、休業銀行が再び続出した。1922年中に休業した普通銀行は15行であった。

こうした金融恐慌に対応し、金融界動揺の波及、すなわちシステミック・リスクの阻止や、不良銀行の救済を目的として、流動性危機にあった銀行に対し、日本銀行による特別融通(日銀特融)と、大蔵省預金部(後の資金運用部)資金の融通による公的資金の導入が行われた。一方、休業銀行の預金者保護を目的とした日銀特融や公的資金導入は、原則として行われなかった14

1923年9月1日に発生した関東大震災は、銀行にも直接的・間接的な打撃を与えた。政府は、9月7日に、30日間の支払延期令(モラトリアム)を公布・施行した。同月27日には、「日本銀行震災手形割引損失補償令」を公布・施行し、金融界動揺の波及阻止を目的として、流動性危機にあった銀行に対し、政府補償付きの日銀特融による公的資金の導入を行った。これは、日銀特融により、被災地の銀行が保有する被災地関係の手形(震災手形)の割引を行い、それによる日本銀行の損失に対して、政府が1億円を限度に補償を行うというものであった。

1927年3月、震災手形の処理をめぐる国会審議中の片岡直温蔵相の失言問題から、東京渡辺銀行とあかぢ貯蓄銀行が休業した。これを契機に発生した預金取付けにより、震災手形の未決済高が多かった銀行が相次いで休業した。同年4月に台湾銀行が休業したことから、預金取付けと休業銀行がさらに拡大した。この昭和金融恐慌に対し、

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、政府(政友会・田中義一内閣)は、全国の銀行に対して、4月22日・23日の臨時休業を要請するとともに、22日に3週間の支払延期令(モラトリアム)を公布・施行した。日本銀行も、金融界動揺の波及阻止のため、特融を実施した。

1927年5月、政府は「日本銀行特別融通及損失補償法案」を帝国議会に提出し、流動性・経営危機にある銀行に対し、政府補償付きの日銀特融による公的資金の導入を行うことを提案した。本法案の主な目的は、金融界動揺の波及阻止と不良銀行の救済にあり、高橋是清蔵相は、休業銀行の預金者保護を目的とした公的資金導入は行わないと言明していた15。しかし、当時、休業銀行の範囲が小規模銀行から中規模銀行に拡大し、それにより打撃を受けた中小商工業者や零細預金者が、休業銀行の営業再開と預金払戻しを要求し、財界もそれを支持した。こうした動きを受けて、本法案は修正のうえ可決・成立し、5月9日に公布・施行された。これにより、休業銀行の預金者保護を目的として、将来営業継続の見込みがある休業銀行に対しては、本法を適用し、預金払戻資金を供給することになった。

政府と日本銀行は、休業銀行の整理を進捗させるため、新銀行を設立し、単独整理も有力銀行との合併整理も困難であった休業銀行を新銀行に吸収させたうえで、休業銀行の補償済震災手形に関する債務を免除するとともに、新銀行に対し、日本銀行の補償法特融を行うという方針を決定した。これを受けて、1927年10月、有力銀行等の共同出資により、新銀行の「昭和銀行」が設立された。

休業銀行の破綻処理の過程で、他行に合併または新銀行に吸収された銀行では、積立金の取崩し、減資減配、重役の私財提供に加え、補償済震災手形に関する債務の免除も行われたが、なおかつ 、休業時預金残高の3~4割程度の預金が切り捨てられた。このように、休業銀行の預金者保護を目的とした公的資金導入が制度化されたにもかかわらず、多くの休業銀行では、徹底的整理が断行され、預金の切捨ても行われた。その背景には、そうした銀行が安易に営業を再開しても、再び休業することになると、金融界はさらに大打撃を受けかねないとの政府等の懸念があった。

1920年の金融恐慌の後、1921年4月に公布された貯蓄銀行法では、預金者保護のための規制強化策として

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、①最低資本金の法定(50万円以上)、②組織形態の株式会社への限定、③兼業の禁止、④資金運用制限(大口融資規制)などが定められた。政府は法定最低資本金を梃子にして、中小貯蓄銀行の強制的な合併を図ったことなどから、1922年に670行あった貯蓄銀行数は、1923年には146行まで減少した。

貯蓄銀行法による規制強化の枠組みは、昭和金融恐慌時の1927年3月に制定された、普通銀行を対象とする銀行法にも受け継がれた。ここでも政府は、免許制や法定最低資本金(100万円以上、東京・大阪に本店を置く銀行は200万円以上)の導入を梃子にして、中小銀行の強制的な合併を図ったため、1926年末に1,420行あった普通銀行数は、1932年末には538行まで減少した。銀行法制定と同時に強化された大蔵省の銀行検査も、銀行合同政策を補完する手段として機能した。ほぼ同時に、日本銀行による取引先銀行調査(考査)も開始された。前述した日本銀行の補償法特融や、昭和銀行の設立などには、銀行の破綻処理と併行して、銀行合同政策を促進するという意図もあった。

ところで、当時、米国のいくつかの州で、州立の預金保険制度が導入・運営されていたことは、既に、我が国でも知られていた16。昭和金融恐慌・銀行法制定時の1927年3月、帝国議会で、休業銀行の預金者保護を目的とする預金保険制度の導入に関して議論されたが、大蔵省は消極的であった。その理由の一つとして、米国諸州の制度は、預金保険資金の枯渇や、銀行経営のモラルハザードの誘発などの問題もあって、当時、廃止あるいは廃止同然となっていたことが挙げられる17

その後、世界恐慌を経験した米国では、多数・分散型の銀行制度と、銀行の退出を想定する市場原理を前提として、前述のように、連邦レベルの預金保険制度が導入され、FDICが設立された。一方、一足先に金融恐慌に見舞われた我が国では、銀行法等による金融規制強化と銀行合同・集中政策がとられ、銀行界の競争回避やカルテル的体質が強まっていったため、この時点では、事後的セーフティネットとしての預金保険制度の導入には至らなかった18。こうした流れは、後の政府・大蔵省による「一県一行主義」や「護送船団行政」につながっていく。このように、当時の日米では、同様の金融恐慌を相次いで経験しながら、金融行政や預金者保護において、異なった道を進んでいくことになった19


  1. ①永・(ひろ)顕・前掲論文(注6)、②同「昭和金融恐慌と休業銀行の破綻処理問題」、『甲南経済学論集』第43巻第2号(2002年9月)、③浅井良夫「1927年銀行法から戦後金融制度改革へ」、伊藤正直・・(つる)見誠良・浅井良夫編著『金融危機と革新――歴史から現代へ――』(日本経済評論社、2000年7月)第5章を参照。
  2. 大蔵大臣の松方正義が、銀行条例の制定の際に閣議に提出した「銀行条例制定ノ議」では、、次のように述べられている。「私立銀行ノ事業ハ他ノ一般ノ商社ト異ナリ、広ク公衆ヨリ預リ金ヲ為シ、巨額ノ資本ヲ運転シ、金融ヲ開導スルノ機関ニシテ、其一成一敗ハ惟リ其株主、債主等ニ直接ノ損益ヲ蒙ムラシムルニ止マラズ、市場一般ノ信用ニ影響シ、一ニ銀行ノ蹉跌ニ因リ、各地方ノ人民尽ク疑懼ノ念ヲ生ジ、平生確実ノ銀行ト雖モ、之ガ為メ多少ノ猜疑ヲ受ケ、営業上不測ノ困難ヲ来スコトアルヲ免レズ、銀行事業ノ一国経済上ニ大関係ヲ有スル夫レ此ノ如シ、故ニ之ガ管理ノ方法モ亦、最厳密精密タラザルヲ得ズ。」
    ここでは、公共性という言葉自体は用いられていないが、銀行条例の立法趣旨として、預金者(債主)の保護や取付けの防止により、今で言うシステミック・リスクの拡大を抑止するという、プルーデンス政策的な考え方が既に明確に打ち出されている。
  3. 例外的に、1924年1月に営業を再開した大分銀行に対し、預金払戻資金として、日銀特融が行われた。また、七十四銀行と横浜貯蓄銀行の破綻処理のために、1920年に設立された新銀行の横浜興信銀行に対し、横浜に本店を置く複数の銀行の連帯保証を伴い、破綻した両行の預金払戻資金として、預金部資金の融通による公的資金導入が行われた。
  4. 高橋是清蔵相は、帝国議会での答弁で、「此法案ハ今後取付ニ行ク所ノ位置ニ在ル預金者ヲ安定スルト云フノデ、取付ニ行カレナイ(休業銀行ノ)預金者マデニハ及ンデ居ラナイ。」と述べた。取付けの防止による事前的なシステミック・リスクの抑制に比べると 、休業銀行の預金者保護という事後的なセーフティネットの優先度は、一段低く考えられていたといえる。
  5. (注6)を参照。さらに古く1906年~08年に、我が国で初めての経済雑誌といわれる『東京経済雑誌』で、預金者保護の必要性が強調され、米国における預金保険に関する議論や、州レベルの預金保険制度が紹介されていた。
  6. 「預金保険制度の不評」、『大阪銀行通信録』第310号(1923年6月)を参照。
  7. 昭和金融恐慌の当時、我が国の一部地域で、休業銀行の預金者保護を目的として、民間レベルでの預金保険制度的な仕組みが設立・運営されていた。例えば、滋賀県では、1927年8月、地元出身の事業家等の共同出資により、近江銀行小口預金者金融組合が設立され、休業した近江銀行の小口預金者に対し、預金通帳または証書を担保として、預金の半額を限度に、資金融通が行われた。この時点では、全国的・公的な預金保険制度は導入されなかったが、一部地域・民間レベルでは、預金保険的な仕組みへのニーズがあり、地域・銀行間の公平の問題はあっても、そうしたローカルな要請に応えようとする動きもあったことは注目される。当時の大蔵省や日本銀行も、こうした事実について、認識・調査しており、関心を持っていたことが窺われる。
  8. その後も、米国の預金保険制度の調査・紹介は行われた。例えば、河野通一「銀行預金の保障」、、、、『財務通報』1935年3・4月号を参照。
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